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パクリ? 引用? オマージュ?
オリジナルを放棄する現代人

原作付きが大半を占め、どこかで見たような? と思わせるキャラやシーンが横行する現在のアニメ作品。我々はどこに作品のオリジナリティを見いだせばよいのか?


引用なしでは語れない文化?
アニメの独自性はどこにあるのか

最近のアニメには、オリジナリティがない?

 日本人お馴染みの例で言えば、古くは「荒野の用心棒」が黒沢明の「用心棒」の盗作騒動から、別項で触れるが、最近の「ライオンキング」の「ジャングル大帝」クリソツ疑惑まで、映画に限らず世に創作という行為がある限り、盗作・盗用の話題は尽きない。
「ジョルジュ・ポルティの選ぶ三十六の劇的状況」というのをご存じか? 簡単に言えば、創作におけるドラマチックな状況は、三十六種類に分類されるという説だ。実際には、様々な国や文化によって独特のシチュエーションも存在するだろうし、厳密に三十六種類しかないというものでもない。とはいえ、多くの映画やドラマ内における劇的状況というのは、だいたいがこの中に当てはまっているようだ。この「三十六」という数が正しいかどうかは別として、完全なるオリジナルシチュエーションによって、物語を構成することなど、はなから無理な話である。
 露骨な盗作は、もちろん許されない。が、無意識的に引用される場合や、ある作品に対する敬意を込めて、意識的にその作品のなんらかのファクターをオマージュとして取り入れる場合もあるし、既存の作品をもとに作りかえたパロディといった行為もある。
 特に近年のアニメ作品は、その傾向が強い。マニアによるマニアのための作品づくりが拍車を掛けているようだ。もはやアニメには、オリジナリティが存在しないとまで言い切る論調もあるが、果たしてそれは正しいのであろうか? 

意外と少ないアニメの盗作騒動

 最近は、アニメ自体よりも、テレビドラマや映画が、コミック作品をやたらとパクリまくっていることが目立つ。新聞ダネにもなったため、割と有名な事件が、一昨年日本テレビで放送された瀬戸朝香主演のドラマ「終わらない夏」の盗作疑惑だ。これは、人気コミック「ホットロード(紡木たく原作)」と、件の「終わらない夏」における登場人物の設定やセリフがあまりに似すぎていて視聴者が騒ぎ出したというもの。これなどは、元ネタが人気コミックであったし、作品全体が盗用の嵐であったためすぐに発覚した例だが、既存コミックのセリフやシチュエーションの引用・盗用は、ここ数年のテレビドラマにおいて日常茶飯事なのは、もはや常識である。
 映画でも、先日ヒットした「スワロウテイル」が、連作コミック「モーターロック(ななし乃与太郎原作)」の1エピソード「スワロウテイル」に酷似しているといった騒ぎは記憶に新しい。
 では、肝心のアニメではどうかというと、OVA「マクロスプラス」が、小説「戦闘機チーターの追撃(ブラウン・デイル原作)」そっくりだという話が、一部マニアの間で話題になった程度で、最近に限って言えば、大きな騒動になった例は意外なほど少ない。

引用の嵐が問題視された
「新世紀エヴァンゲリオン」

「新世紀エヴァンゲリオン(以下エヴァ)」は、オタクの玩具としては、近年まれにみるほどコストパフォーマンスが高い。大盤振る舞いの濃い内容は、パロディなども含めて、誰もが頼まれもせずに思い思いの「エヴァ」を語りだしてしまう。そんな「エヴァ」であるから批判も多い。訳知り顔で語られる批判の一つに「オリジナリティの皆無」がある。「エヴァ」は引用の固まりだという説だ。
 無から有は生まれない。アニメに限らず、どのような創作物においても、何らかの元ネタがある。その、元ネタが作者の頭の中で、組み合わさったり、変質したりして、意識的無意識的に熟成され、独自の作品になるのである。
 超ヒット作「エヴァ」の場合、子供の頃にアニメなどを観ていない年寄りまでが騒ぎ出しているものだから、言いがかりに近いものも多いが、やはり引用(だとハッキリわかる)事例が目立つことには違いない。ただし、ロボットに少年が乗って操縦するとか、ロボット開発者に肉親がいるとかいったことはパクリにあたらない。時代劇で、徳川ゆかりの人物が市井の人に化けて庶民生活を送っている的な「約束事」に過ぎない。
 それは別としても「エヴァ」の元ネタが判別しやすいのは確か。しかし、「エヴァ」における様々な引用は、最初にあげた盗作疑惑の作品群とは本質的に異なる。
「エヴァ」が引用の固まりであるのは、それが監督である庵野秀明の作風に他ならないからだ。
 庵野監督は、アマチュア時代の作品から、OVA「トップをねらえ!」テレビアニメ「ふしぎの海のナディア」、そして「エヴァ」に至るまで、一貫して過去の作品の文芸面・ビジュアル面に関わらず、自分が影響されたと思われるものを惜しげもなく作品に投入する。これがマニアを引きつけてやまない庵野作品の魅力でもある。この庵野式エンターテイメント作劇法? を否定したところに、庵野作品は一切存在し得ない。元ネタを上手に組み合わせつつ、内部処理し一級の娯楽に仕立て上げるところが、庵野作品の醍醐味であり、オリジナリティなのである。
 しかし、このような作風は、ともすれば陳腐なアマチュアムービーになりかねない危険性をはらんでいるのも事実であるが。

70年代の感性がリンクする
90年代のオリジナリティ

 引用に関して言えば、六十年代後半から七十年代にかけて発表されたアニメ、コミック、映画のリサンプルが目立つ。これは庵野監督だけに言えることではなく、近年の若手アニメ作家に共通する特徴だ。
 今川泰宏監督の傑作OVA「ジャイアントロボ」は、七十年代のコミック「ザムーン(ジョージ秋山原作)」の影響下にあるのは明白だし、過去のアニメそのものをパロディ化した「機動戦艦ナデシコ」などは言わずもがなである。
 また、こういったことはアニメに限ったことではなく「古畑任三郎」の脚本家三谷幸喜をはじめ、実写のテレビドラマでも散見されるようになってきている。その理由は、生まれたときからテレビや劇画の洗礼を受けてきた初の世代が、第一線のクリエーターとして世に出てきたからである。
 これらはリバイバルブームのような懐古趣味とは一線を画する。70年代の感性が微妙にリンクしている90年代の日本の映像作品群は、新たなオリジナリティの発露だと思う。単純にパクリと切って捨てるのは、あまりに早計すぎると言わなければなるまい。

「エヴァンゲリオン」引用例

 全編引用で埋め尽くされた感のある「エヴァ」であるが、作品中に散りばめられた引用を探るのもまた楽しみの一つだ。
 劇中頻繁に現れる黒字に明朝体の文字レイアウトは、市川昆監督作品の特徴。文字の出し方は実相寺昭雄監督の演出技法に近い。
 登場人物の「鈴原トウジ」「相田ケンスケ」「加持リョウジ」は、小説「愛と幻想のファシズム(村上龍)」の登場人物名から。最終話のサブタイトル「世界の中心でアイを叫んだけもの」はハーラン・エリスンの同名小説から。
 小説「戦闘妖精・雪風(神林長平)」は、感情のない主人公の名前が零(ただし男)であったり多くの類似点が見られる
 第8話における弐号機初戦闘シーンとコミック版「ゲッターロボ」のゲッター1初戦闘シーンの酷似。これは見た目の相似点だが、庵野監督は永井豪や石川賢のコミックの影響が強く、作品の世界観にまで両氏の作品のテイストが色濃く出ているようだ。
 第7話のロボットのJAの暴走をくい止めようとするミサトは、「2001年宇宙の旅」の、ボーマンが、コンピュータを停止させようとするシーンを思わせる。
 他にも多数あるのだが、「エヴァ」の場合、パロディ的側面のある「トップをねらえ!」ほど露骨な引用はしておらず、イメージのみの借用が大部分を占めている。

ジャングル大帝とライオン・キングの関係

アメリカから火がついた「ライオン・キング」盗作疑惑

 アニメのオリジナル性を語る上で、やはり避けては通れないのが、94年に公開されたディズニーのアニメ大作「ライオン・キング」の「ジャングル大帝」盗作疑惑であろう。騒ぎは日本からではなく、ディズニーお膝元であるアメリカから起こった。全米とは一ヶ月遅れの日本公開を前に、アメリカの複数のマスコミが一斉に「ライオン・キング」は、手塚治虫原作のアニメ「ジャングル大帝」に酷似していると報じたのである。なぜ、日本ではなくアメリカが先に騒ぐの? と思われるかも知れない。
 最近、日本アニメが海外で大人気と浮かれる風潮があるが、初のテレビアニメ「鉄腕アトム」から海外輸出は行われており、今も昔も海外の子供達は日本アニメを観て育っているのだ。現在のブームとの違いは、それが日本製だと認識されているか、いないかの違いに過ぎない。
「ジャングル大帝」は、放映された62年当時、カラーテレビが普及していなかったにも関わらず、巨額の費用を投じ、日本初のカラーTVアニメとして制作された。カラー化の理由は、海外輸出を意識して、というより最初からそれを前提として制作されたからだ。アニメ「ジャングル大帝」は、もとから海外輸出仕様なのだ。アメリカでは「キンバ」というタイトルで放映され、当時の子供達に絶大な人気を博した。よって、アメリカ人が「ライオン・キング」と「ジャングル大帝」の共通点に気付くことは、なんら不思議なことではないのである。

あまりにも似ている設定
だが、原作者側は一切不問に

「ライオン・キング」のストーリーは、よくある王位奪還物で、これは良くも悪くも、ディズニーが得意とする万国共通の王道ストーリーである。主に問題視されているのは、「ジャングル大帝」とのキャラ設定の酷似だ。「シンバ」という主人公のネーミングの酷似を初め、シンバを取り巻くキャラクター達がほとんど同じ。おしゃべりで皮肉屋な鳥や、森の賢者であるヒヒ、ハイエナのヤクザ、片目に傷のある黒髪の敵役ライオンなど、指摘されるまでもなくキャラクターの共通点が非常に多い。
 この件に関してディズニーサイドの公式コメントは「単なる偶然の一致である」ということで終始している。しかし、コメントが統一される以前は、一部アニメ誌などで「ジャングル大帝」に影響を受けた故の発言も見られたようだ。
 日本側でも里中満智子をはじめとする漫画家が抗議をおこなうなど、国際的な訴訟事件に発展するのではと思われた。しかし「ジャングル大帝」の原作者である手塚治虫の遺族側から「手塚がディズニーから受けた影響は計り知れないものがあり、もし本当にディズニーに影響を与えたのなら父も本望でしょう」とのコメントが発表され、手塚側は一切不問ということで騒動は一応の落着を見た。
 遺族側からのコメントにもあるように、手塚マンガの原点がディズニーアニメであるというのは良く知られた事実だ。初期の作品には、ディズニーに対するオマージュが頻繁に見られており、提訴すれば、ディズニー側に逆訴訟される可能性もあったからだ、という見方もある。が、当時手塚が存命であれば、遺族のコメントと同様の発言をした可能性は高いだろう。

新作「ジャングル大帝」に、
オリジナルの力を見いだせるか?

 その「ジャングル大帝」が、完全リメイクされた劇場版として、今年の夏に公開される。今なぜ「ジャングル大帝」なのか?
「3・4年前から、松竹さんから手塚アニメをやりたいという話がきていまして、最初は『鉄腕アトム』を希望していましたが、いきなりエースの登場はちょっと、ということで『ジャングル大帝』の制作が決定したのです(手塚プロダクション)」
 企画立ち上げの時期は別として、まだ「ライオン・キング」の余韻さめやらずといった時期での公開は、オリジナルであることの自信の現れともとれる。逆に言えば、手塚プロ側も「ライオン・キング」を意識せざるを得ない状況だ。
「基本的には、どこか意識している部分はあります。こちらがパクリと言われないよう気を付けなくてはならないし(笑)。アニメの質的な意味で言うと、あちらとは掛ける時間や予算のレベルが全然違うのでリングが違うと思っていますが、テーマ性やストーリーでは負ける気はしません(同)」
 ストーリーは、レオが最初から百獣の王であり、息子のルネが原作におけるレオの位置にいるなど、相違点も多いが、基本的には原作を柱としている。
「原作通りにレオを死なせたい、というのが企画の初めにありまして、あのラストをどのように生かすかということが、この作品のポイントになりました(同)」
 あのラストとは、レオがヒゲオヤジに、自分を食べて生き延びろ、と命ずるショッキングなシーンである。仏教的死生観を含んだ名シーンなのだが、確かにディズニーには真似の出来ない辛辣さだ。いや、死んだキャラが簡単に生き返ってしまう風潮の近頃の日本アニメにも、ここまでの厳しさはあまり認められない。ましてや「ジャングル大帝」は、ファミリー向け劇映画なのだ。
 この夏、オリジナルがどこまで力を見せつけるか、ファンならずとも気になるところである。

日本の著作権法は、アニメビジネスを保護しない?

著作権で保護されないアニメキャラ

 特許権、実用新案権、意匠権、商標権などの工業所有権と並ぶ、知的所有権の大きな柱である著作権は、文化的な創作物を保護する目的により、著作権法で規定されている。
 この文化的な創作物とは、文芸・学術・美術又は音楽などのジャンルのなかで、人間の思想、感情を創作的に表現した著作物のことをいう。
 工業所有権は、登録しなければ権利が発生しないのに対し、著作権は、著作物を創作した時点で自動的に権利が発生し、以後著作者の死後50年まで保護されるのが原則だ(現在70年に延長する方向で検討作業に入っている)。
 アニメ作品も映画あるいは放送としてこの著作物に入るが、保護の対象は、あくまで作品そのものであり、キャラクター設定や名称などは著作物の規定には入らない。つまり、同じ特徴を持つキャラクターでストーリーの違う作品を制作しても、これは著作権の侵害にはあたらないのである。
 もっとも、過去にはキャラクターの無断使用による著作権侵害が認められた判例もあり、露骨なキャラクター使用には相応のペナルティが発生する場合もあるし、無断使用が民法709条の「権利侵害」として損害賠償を命ぜられる可能性もあり得る。が、著作権法上で明文化されていない以上、基本的には保護の対象外だと思ってしかるべきだ。
 日本では、アニメ作品のスポンサードをする企業などが、キャラクターデザインの意匠登録や、名前の商標登録など、著作権ではなく工業所有権の側面からキャラクターの権利を主張するのが最も一般的だ。しかし、登場する全てのキャラクターを登録するのは事実上不可能であろう。
 ディズニーなど、ワールドワイドにキャラ商法を展開をする企業の多いアメリカでは、キャラクターは著作権法できちんと保護されている。対して我が国の法律では、アニメやコミックに登場するキャラクターの著作権は、非常にあいまいで弱いのが現状だ。

公正なる使用「フェアユース」とは?

 他人の著作物を無断で複製または放送してはいけないというのは、著作権の原則だが、日本の著作憲法では「許される無断使用」という概念があり、これは条文を設けて規定されている。
 例えば、評論などで小説や音楽などを引用することは、著作者に無断であっても許される行為とされる。しかし「パロディ」として他の著作物を取り込む場合は、なんの規定も明文化されていない。一般的にパロディは一定限度内で許される行為と認められてはいるが、このあたりがなんとも不明瞭で、法としての著作権の難しさがある。
 アメリカには「フェアユース(fair use)」直訳すると、公正なる使用という意味の著作権概念がある。これは、日本の著作権法のようにきっちり条文化せず、公正な使用であれば、著作者に無断で使用しても著作権の侵害にあたらないという考え方である。なにが公正なのかという判断は、「使用目的の性質」「著作物の性質」「著作物の量と実質」「著作者に与える経済的効果」という4点の考察基準を設け、裁判所はこの4点全てを考察しなければならないとされるものだ。「フェア・ユース」を、そのまま日本の現行法に適用できるかは様々な異論がある。しかし現行法の定義では、マルチメディア時代の現在において、もはや無理が生じてきていることも事実でなのである。


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