前から書きたいと思っていたテーマでありながら、なかなか書けなかったファンタジーとメルヘンの違いに関する私の考察を書いてみた。
ちなみに、私は文学に関する専門家ではなく、こうなのではないか? という考えを書いているだけなので、そのまま鵜呑みにしないでね(笑)
アニメやゲームに限らず、小説や映画、あるいは何かの広告などでも、ファンタジーとかメルヘンとかいう言葉が氾濫しているが、使い方がかなり適当である。
同じ作品でも、紹介の仕方でメルヘンだったり、ファンタジーだったりするし、官能小説は大人のメルヘンだというコピーもよく目にする(笑)
私も中学生くらいまではそうであった。
正直に告白してしまうと、同じ幻想的な小説でも、子供っぽいのがメルヘンで、大人っぽいのがファンタジーであるくらいの情けない認識であった。
中学から高校に書けての乱読時代、書名は忘れてしまったが、偶然に読んだ児童文学作家佐藤さとる氏のエッセイ本でその違いを知ることができた。
佐藤氏によれば、欧州の文学界において、ファンタジーとメルヘンは厳密に区分けされているという。
この区分けは、作品の前提となる世界観の違いによるものだ。
単純に言えば、自分たちの生きている世界の話か、そうでないかという違いである。
つまり、ファンタジーとは完全な異世界、すなわち我々の住む世界とは空間的・時間的に全く接点を持たない物語のことであり、メルヘンは、逆に自分たちの世界での物語でのことある。
面白いのは、例え動物が喋ろうとも、見たこともない奇天烈な街や村であろうとも、時代が未来であろうと過去に遡ろうと、自分たちの住む世界で起こったとされる物語であれば、それはメルヘンなのだ。
そして、どんなリアルな街が舞台であろうと、我々の住む世界と異世界であることが前提で作られた話ならば、それはファンタジーなのである。
驚いたことに、物語の内容そのものは、この区分けに直接関係しないのだ。
おとぎ話がメルヘンと呼ばれるのも、別に子供向けだからというわけではなく、現実に起こっているというお約束のもとに書かれているからだ。
イソップ童話など、ほとんど動物しか登場しない。その上、人間のように話したり生活したりしており、どう見ても自分らの世界と同じとは思えないのだが、これはメルヘンなのである。作者が異世界を描いているのではなく、明らかに現実の人間社会を描いているからだ。
この物語に登場する動物は人間の暗喩であり、キャラクター性、あるいはテーマ性を際だたせるために、人間を動物に置き換えているだけである。
そう考えると、この世に存在する物語の大半が、広義においてはメルヘンに属するということになってしまうが、フィクション性の強い作品(童話やSFなど)などに限定して使われているようだ。
ファンタジーすなわち異世界である。
我々にとって、もっとも身近な異世界はなにか? と言えば、おそらく眠った時に見る夢であろう。夢はどんなリアルな内容だろうとも、決して現実ではないのは、夢を見た本人が最も認識している。つまり、現実でないのが夢という存在の絶対条件であるともいえる。
これはファンタジーの定義と同じだ。
ファンタジーの語源であるファンタズマとは、『異様な形で現れる』『目に見えないものを見えるようにする事』という意味らしい。同じ語源である、ファントムは幽霊と訳される。
ここでいう『目に見えないもの』というのは空想や幻想のことで、これらも夢と同様、現実でないと最初から認識されている。
すなわち、ファンタジーとは、この世に存在しない夢物語である、と最初から宣言している物語なのだと思う。
宣言というと語弊があるが、ファンタジーは、夢物語だという約束事ありきの物語だということだ。決して、剣と魔法が出るからファンタジーというわけではない。
メルヘンとファンタジーの両者に共通するのは、現実離れした内容が多く、明らかにフィクションであることが受け手にすぐ理解できるという一点であるが、作品によってその境界が曖昧なものも多い。
私は時々、色々な作品に接する時に、ひとりでこれはファンタジーか? あるいはメルヘンか? などと自問自答して楽しんでいるが、これがなかなか面白い。
例えば『スターウォーズ』は、どちらだろう?
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