ゲーム原作の仕事が専門?
私はゲーム原作のアニメの仕事が、非常に多い。いくら、ゲームのアニメ化が最近の流行とはいえ、『サクラ大戦』といった一般作から18禁ものまで、いままで携わったアニメ作品のほぼ80%がゲーム原作。
ゲームをアニメ化するにあたって、参考のため原作であるゲーム作品をプレーしなければならない。原作を知らなければ、翻案すらできないからね。実際、複数の仕事を並行するるとけっこうキツイ。なんだか以前やっていた攻略本の仕事とあまり変わらない気がする。
できるだけ、原作元から資料をお借りしているが、やはり自分でプレーしないと、いわゆる作品のキモになる部分がつかめないからだ。
ゲームのキモとはなにか?
ここでいうゲームのキモ、というのは、そのゲームが、そのゲームであるための一番重要なポイントのこと。ストーリー、キャラクター、システム、グラフィックそのものなど、ゲームによって、キモとなる分は微妙に違う。
私が『ポケモン』のアニメで感心したのは、モンスターを魅力的に描くのは当然として、システムそのものをアニメ化しているところだ。モンスターの取得・育成・交換・バトル・転送などといった持ちキャラの整理まで、ストーリーに違和感なく織り込んでいる。
このような事は、単にゲームのストーリーを追うだけではつかめない。だいいちゲームというメディアのストーリーというのは、本来プレーヤーが紡ぐものである。それでなければゲームとは言えないのだ。だから、資料だけではなく、自分でプレーする必要がある。これだけは自分でつかまないと、どうにもならない。
アドベンチャーゲームのアニメ化
シューティングであろうと、アクションであろうと、システムまできちんと検証して、キモを掴むのはとても重要なのであるが、アドベンチャーゲームはどうだろう?
特に18禁もののアドベンチャーゲームは、ストーリー性が強い。ものがものだけに、キャラクター自体の魅力は当然として、選択分岐のシステムが主流であるから、キモはシステムからではなく、そのストーリーのほうに存在する。これはこれで、かなりやっかいである。
まず、単純に量的な問題がある。
ちょうど一年前に格闘していた『リフレインブルー』という作品は、原作ゲームの収録台本が、全部で2500ページにも及んでいた。これのアニメ版の台本は、3巻合わせても200ページに満たない。ちなみに『恋姫』も「原作」の台本が800ページ、アニメの台本は110ページ。これらは、あくまで収録台本なので、音声化されない部分は含まれていない。情報量が圧倒的に違うのだ。(『luvwave』という作品は、無音部分も含め原作が1.9MBに対し、アニメの脚本が47.2KBだった)
原作の資料は、可能な限り目を通すのだが、目を通すだけで、気が遠くなることがある(笑)
このような情報量の差を、アニメで完全にフォローするのはまず不可能だ。たいていの場合、原作のボリュームなどとは無関係に、営業的戦略によって巻数を決めるため致し方ない部分があるのだが。
受け手の違いが作品との違いに
また、内容的な部分で、いつも考慮しなければならないのは、特に18禁作品の場合、アニメ版の視聴者の大半が、原作であるゲーム版をプレーしたことがないという事実だ。同人誌であれば、受け手が作品についての基本的な情報を持つという前提で作ることができるが、我々の仕事は、そういった作り方は不可能なのである。
実際のドラマ部分にも、大きな問題がある。視点の問題だ。ゲームは、通常一人称で進んでいく。視点はプレーヤーである主人公に固定されているのだ。
アニメでは、視点を固定して話を進める訳にはいかない。これはメディアの特性の違いで、ゲームでは、ユーザーがアクティブに参加していくのに対し、アニメに限らず、映像作品の視聴者は、パッシブ、すなわち常に受け身なのである。受け身の状態であるから、視点を変えたり、様々な仕掛けをしないと、たちまち飽きてしまう。映像作品における様々な技術は、すべて受け身である視聴者をいかに作品にのめり込ませるか? という目的のために、研究され実践され続けているのだ。
視点が違うだけでイメージもかなり変わるし、ストーリー自体も変わらざるをえない場合もある。意外なようだが、ゲームのストーリーそのものをなぞるだけでは、映像作品として成り立たないのだ。
ここのところ、私が脚本を担当した作品の新作が、毎月リリースされていたため
「それだけやったら、もう、ゲームのアニメは飽きたでしょ?」
と、冗談交じりに言われることがあるが、まだまだこれからである。
だって、ゲームもアニメもやっぱ面白いもんね。